令和六年の恵方は「東南東」で潤(うるう)、甲辰(きのえたつ)歳だと「暦」はいう。戦後間もない貧しい家庭の”鬼追(節分)い”は沖が近かったので海苔は安く手に入ったので、干瓢(かんぴょう)入りか漬物大根を刻んだ巻き寿司を「かぶった」のが季節変わりの歳時記の楽しみであった。大人たちは沖へ海苔拾いに出かけ、拾ってきた海苔は庭先で加工して佃煮に姿を変え夕餉のおかずになた。
暦では明日3日は雑節の「節分会」です。子供が成人し、孫も社会人になると爺(ジジ)より友達とスイーツを頂く方に足が向くのは致し方ないことだが、平安時代から続いて戦後間もない時代は、家族皆がそろう数少ない夕餉あとの楽しい行事であったのが何時の間にか、戦後復興が進み父親は朝早くから夜遅くまで働き戦士として、母親も会社勤めをやり、夕餉のちゃぶ台を片付けたあと遅くまで夜なべして子供の服の繕いをし、朝眼が覚めると枕元に繕いを終えた靴下、服がたためられ子供の寝覚めを待っていた。当時の親たちの働きと苦労に”ありがとう”と言っただろうか、忘れたが言っていないかも知れない。当時、子供の働き口は新聞配達か、牛乳配達ぐらいであったのを共に経験した。ので今も目覚まし時計が無い生活を出来ている。
「二月」は旧暦では如月(きさらぎ)呼び、『日本書記』に用例が見られます。如月の語義は、草木の芽が出し始めることで、着物を更に重ね着ることだとも言われる(衣更月)。他に,華朝(かちょう)、春分(きさらぎ)、絹更月(きさらぎ)、雪消月(ゆききえつき)、など10指を越える呼び名がある。「4日」の立春を聴くと春近いと感じるのは我だけだろうか、庭木に野草に眼をやり、春を見つけたいとなったりし、見つけると嬉しいのである。
「節分会」は今年二月三日を節分としている。もともとは、立春、立夏、立秋、立冬の前日を指し、一年に4回あったが現在は立冬の前日の一日だけとなった。旧暦では正月を迎える月なので、節変わり、年越し、年取りなどと呼ばれ、災厄、邪気をはらう行事として行われ、豆を投げ、「鬼は外、福は内」と呼ぶのは中国から伝えられ宮中に伝わり、庶民には江戸時代初めでしょう。今も、玄関にイワシ、柊を据えるのは悪臭で家内に鬼が入らない考えからで、戸主が投げたマメを年の数だけ拾い食べたのは半世紀をゆうに超え遠くなった。
季節を感じる年間行事や人生の節目にお参りする儀礼などなど、風土記を歩く会員皆さんは還暦はすでに終え、古稀、喜寿祝いは、どの神社にしようかと考えておられる方もあるでしょう。最後に、年間を通して各所で開催される歳時記に足を運び、現地の人と喋り、想いを肌で感じるなら日々の生活のスタイルも変化し、張りが出るでしょう。明日は何処へ出かけますか! Ⓢ atomu
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