2023年7月4日火曜日

 播磨の峠を西へ東に時に北へ越えて60年 、今は廃村や過疎化と出会う

 播磨の峠を”西へ東へ向かった ”旅人” 

      と「戦後60年の山村の移ろい」


 日本列島の東西の要に位置する兵庫五国を東西から文物が往来し、通過していった。古代は都から大宰府へ、外国使節が九州から、各国から税(調)を運んだ道路が主要道であった。強者の時代になると国界峠を挟んで国盗りの舞台になった。江戸時代には藩主が参勤交代で峠を越え江戸へ向かったのが今の国道なのでしょう。播磨にも数多く城跡があるが、県内には1000を超える城があったというが詳細は詳らかでないらしい。山地探索で山へ踏み込むと村人が隣の里村へ歩いた小径が尾根を越え、乢(峠)頂上の削平地に小さな地蔵さんと旅人が雨露しのげる屋根が掛けてあったりもした。村人や狩人の作業用の掛小屋跡で突然残存品が見つかり心が躍ることも再々である。戦後、山へ入らなくなったのは家庭にプロパンガスが普及し始めた昭和40年(1945)ごろからで、会社勤めが持てはやされ、重労働の山仕事が敬遠され始めた。それが、今日の良材の不足と山の荒廃を呼んでいるのでしょう。もう一つ気になるのはシカによる杉の皮剥ぎ被害です。間もなく市場へ出荷する予定の材の皮を剝がされ価値が無くなり立枯れを待つのです。当時は、一日中、山を歩いてシカに合えるかかどうかで 、鹿の子模様でつぶらな目が振り返ると女性たちは可愛い!!と歓声を上げた。しかし、皮剥ぎを再々見させられると可愛い姿も鬼に見えてくるのです。県内(全国)峠のほとんどは村人が隣村へ農事や連絡、慶事や弔事、時には花嫁が越えたでしょう。 

 最近、ヤマビルの拡散が社会問題になって久しいが、いまだ解決していない。山中だけでなく民家の庭にまで出現するので行政に対策を依頼したニュースがあった。執った対策はヒルが庭に来ないようにする薬剤を村人に配布したそうだが、効果は如何ほどかと尋ぬれば余り効果なし、だそうだ。戦前からヤマビルの生息範囲は限定的で、ヤマビルの攻撃は殆ど無かった。峰山、砥峰、段が峰など草地ではダニに注意していた。それが、ある時期から雌鹿の捕獲が制限されて以後、頭数が急増し、冬季の積雪が少なくなったことと併せ生息範囲が北上始めた。急遽、捕獲をOKとしたが、時既に遅しで、以来、増え続け、山が荒れ、シカと共にヤマビルの生息範囲も拡大した。今はシカの頭数は多少減ったと言っている。

 我はヤマビルに好かれないと豪語していた時期があった。シカの生息範囲が北上し始めた30年以上前であろう、山仲間はヤマビルにやられ足中真赤にしていたが、まだヤマビルの攻撃は受けずいた。当時、鹿被害が宍粟市三方町まで来ていた。仲間と段ヶ峰、笠杉山から岩塊流を下った、仲間の多くは足に攻撃を受け真赤になっていた。我は攻撃なし、と豪語していたが岩塊流で痛烈な攻撃を受け玉砕であった。

 昭和40年前後に登山ブーム起き、若者が野外へハイキングやピクニックへ出かけ郊外は賑わった。ブームに遅れじと初めての標高1000mの山地が峰山高原であった。灌木と雑木の瀬戸内の山で育った若者は見たこともない異次元のススキの原に魅了され砥峰、栃原(生野)高原へも足繁く通った。草原で野ウサギを追い、頭上のワシ、タカを目撃、時にキジ、ヤマドリが急に飛び出しビックリもした。四季を通じて野草も多かったが、花の名は女性が覚えるものだと言って覚えなかったのが、今に影響している。峰山高原で大ぶりの花咲くレンゲツツジに出合い驚いたが、今の環境変化で木陰でも良いから残っていてほしいと思っている。

 それ以後、ヤマビルとの戦いが30余年続き,ダニともお付き合いが続いている。最後に、都会からやって来た親子がヤマビルにやられ足が”真赤になって驚く”光景を想像すると、肝っ玉母さんでない限り ”山は好き” の返事は頂けないでしょう。 Ⓢ  atomu

        

          古代山陽道野磨馬家

       宍粟市の外周と峠道230kmの記録展
 

 



 



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ホタル、アジサイ求めて東播磨を駆ける。

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