但馬国府、国分寺跡を巡る
但馬国は平成の大合併で多くの慣れ親しんだ歴史ある町名が消え、寂しくなった。豊岡市と言われるとカバンの町しかご存知ない。どこと何所が合併したのか?が分かっていないのである。脳裏には”柳行李”制作現場と国内でただ一羽残ったコウノトリをゲイジ越しに関係者の案内で眺めた貴重な体験を60年前にやった。それが今日、地元の人頑張りと伝承を絶やしたくない思いが、カバンの町やコウノトリの郷として人気を呼んでいる。 現、国分寺跡は豊岡市日高町国分寺であるが!、旧くは日高町であった。当時に発掘調査が行われて居れば見学したであろうに残念至極である。 古代は都に近く、丹後、丹波、但馬三国が一国の大国であったのと日本海に面する良港であったので、先進国の中国、韓国の文化、産物が直接輸入された先進国であったのでしょう。
天平13年(741)聖武天皇が”各国に国分寺を建設せよ”との「詔」を発したので各国競って建設に励んだ。完成した国もあり、未完の国もあったようで、但馬国は完成したようです。しかし、宝亀8年(777)に七重塔に落雷が落ち、焼失したと記録に残っておるらしい、30年余りの余命であった。一辺160mの築地塀に囲まれた広い境内に金堂、講堂,七重塔、中門、南門などがあったのが分かっている。近くに国分尼寺、国府などがあ、都からも近い大都市であった。2022年の41次調査で推定はされていたが講堂の跡地が見つかって国分寺の体裁が整ったと言えるでしょう。 地理的には稲葉川、円山川から運ばれた土砂が堆積した但馬国では恵まれた土地であり、日本海海路から近く渡来文化をいち早く吸収したと考えている。但馬国は神社は少ないが多くが式内社で近接する国でも一番多いことを記し、答えを見つかっていない。但馬国府 国分寺会館へ足繁く運んで凄さを知ったらどうだろう。
層塔が日本海側に少なく(鳥取、島根)無いのは落雷による消失だと考えており、平地に立つ層塔は雷さんの餌食になり、守る高木が無いからで、妙見山の塔が健在なのは妙見杉に守られてのことだと思っている。
日高町と慣れ親しんだのはスキーである。姫路を夜発ち、民宿で半泊まりして夜が明けないうちからゲレンデでドンデン返りを繰り返しながら励んだものです。今、高原へ行き思い起こすと、噴火口を持つ神鍋山のゲレンデで腕を磨かんと励んだ一本松も健在で今も聳えている。
但馬の野外活動の仲間に随分と世話になった。瀬戸内海育ちの「我」は但馬の風景は珍しく眩しかったので足繁く通った、今も魅力一杯である。Ⓢ atomu
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