豊かな田舎の丹波と柏原八幡三重塔に木の根ばし !!
10月中頃から11月下旬は丹波は名産「丹波の黒豆」や「山の芋」販売に合せ、近在はもちろん近畿一円から人々がやって来る。にわか造りの店舗のオープンには我さきと客が駆けつけ、二束三束と抱えて車に駆ける。山の芋は単価が高いので客は落ちるがシーズン初日には馴染み客が来るようである。丹波松茸は京都、大阪の料亭に流れるので眼にすることが無くなり、庶民には遠い食べ物となった。一度だけ丹波の山で松茸に出合ったことがあったがその後、トントご無沙汰である。猪肉(ぼたん)は「神戸牛」と双璧の値段なので手が出ないのだが、友人が猟師をやっていたのでおこぼれを頂いていた。時には、手伝いに出掛けて命を頂いたこともある。その友も、老いて猟師を終えたので、おこぼれが届かなくなっい。
それらに、合わせるように丹波の紅葉が始まる。入山料を徴収する寺もあるが、車を駆けていると、あちこちで紅葉、黄葉に出合う。山裾の村落に映える紅葉(黄葉)が丹波の魅力で、濃緑の山、ひこ生の田んぼの薄緑に空を突く黄葉(紅葉)の景色にそこかしこで出合う風景が老人には懐かしく魅力なのである。50余年、兵庫五国をそこかしこへ出かけたが瀬戸内側や日本海の但馬地区とは違う、何故なのか分からぬが雰囲気(かぜ)が違うように思う。これは、豊かさなのか、風土なのか。瀬戸内のせっかち気性、言葉。但馬の雪を生き抜く屋敷と根性は、丹波地区では読めないのです。昔から標高600mから700mの山脈が巡る盆地を丹波高地と呼び、この寒暖差が丹波黒豆、小豆、山の芋、松茸、丹波栗、猪肉などを生み育てて、1000年余、都の食を支えていたのである。などなどが、瀬戸内や但馬に無い気候風土が今に見る姿を生んだと思っている。
他国の者には本州の分水嶺の最低標高100m弱が丹波に有ることを知らないだろう(日本の最低分水嶺は北海道)。彼らは加古川と由良川が分流し、急坂流が無く京丹波、京丹後へ至るのを知って交流し先進の文化、文物を呈受していたただろう。
そんな丹波柏原(柏原藩二万石・藩主織田家)の「柏原八幡神社」の三重塔を紹介しよう。県下で、神社に聳える三重塔は六條八幡神社と名草神社二基と、我が塔の三基である。
柏原八幡宮の創建は欽明天皇(629~641年)時代に三重塔が建つ場所に「牛頭天王」を祀ったのが始まりだと言う。三重塔は応仁2年(1468)に建つた、その後、数度の消失の度に再建された。現在の塔は彫刻師、中江権治が文化12年(1815)に檜皮葺で再建し現在に至る。軒先などの彫物は彫刻師の再建を彷彿させ、眼を見張る出来である。現在兵庫県文化財の指定を受ける。本殿、拝殿は「権現造り」の初期の造りである事から、国の「重要文化財」の指定を受けている。戦禍だけでなく層塔の宿命である落雷による消失もあったのでないか?。再々の再建を果たせる財力は、どこに有ったのか、藩の財力二万石では無理だろうから、村民の浄財があったのではないか、なども知りたい事象である。 Ⓢ atomu
0 件のコメント:
コメントを投稿