代議士の資金隠し・宝塚の人権無視・ダイハツの資料改ざんほか多数 !!!
< 伊和大神の天罰を受けて改心することを誓いませんか! ><伊和三山と一山古墳>
ここ暫く、悪さした人のお話と、若い彼女の憧れの舞台で悪さされ、亡くなったんでないかと、テレビ、新聞を賑わしている。日本の舵を取る人たちが約束を守らないで、集めた金を自分の金庫に収めていた。この人たちは日々生活に困っている老人、働けない人、子供がいる一人親、低額の年金支給者などなどの生活を経験していない、エリートである。彼らは江戸時代の大名気分の様に見えてくる。彼らは自分の懐が寒くなれば年貢を割り増しして徴収すれば、懐は太るのである。悪さする輩は、多くの人を口先だけのエサで金を集めたのを、使い先不明はダメだと、襟を正すお役人が怒ってい調べている。これまで、何度も記載し報告するように注意されているのに懲りていない。一般国民なら、罪になるかも知れない事を、悪代官は、記入漏れとか忘れてたと言い訂正すればOKをもらえるのは代官(代議士)だからなのだろうか。それを見て、悪大名、悪代官の役職に付けたくないと、ささやかな手当てで夢を追い、力一杯働く若者、キャリア一杯の正義の味方の先生に期待したい。次の代官選挙に口先ばかりの代官はNOを投票し、代官から降ろしてダダの人の苦しみを味わってもらう。
若い彼女の憧れの世界「宝塚」が日夜マスコミをにぎわしている。一般庶民がこれほど人間性に欠けた団体だったとは知るすべも無い。テレビでマイクを向けられおばちゃんの答えは「長く応援してきたので早く開演してほしい」が多く目に付くのは、おばちゃん達の夢を舞台が叶えてくれるのが「宝塚」だったのだろう。無くなった女性が悪いのだ、と取れるような言葉が端々に感じられ、
田圃の中にある一つ山古墳川向こうの高畑山 (古墳の先の微高地は揖保川堤防で流れ橋が架かる)
三山で一番厳しい白倉山
一の宮町千町分校での児童との交流の様子(1969年8月4日の書込みがある)
情けない思いで聞いていた。100年舞台、色々と舞台裏には波風は有っただろうが国民には伝わらず、花やがな舞台がすべてだったように思う。これを作ったのはマスコミも片棒を担いでいないだろうか、情報があれば取材するが、宝塚の名と天稟(てんぴん)に掛け「少しぐらいならが」記事にならなかったのかも知れない。事故防止勉強会の時に、小さな事故のうちに摘んでおけば大事故を防げると、教えられた、まさにこれに当たるではないか。幼い14歳からの女の園の生徒が偉い先生にNOが言えますか、言えないでしょう。次に思うに、演出家、ディレクタ―の声が聞こえてこないのはなでだろう。すべてのスタートは彼らでないか、彼らがNOと言っておれば防げたであろう。最後に地元マスコミの失態ではないかとも思う。入試発表の様子と着飾った姿の舞台しか取材していないではないか、眼と耳を塞いでいたのだろう。
さて、偉そうなこと言う我は人の迷惑かけないように、少しでもお役に立ればと考え80有余年生き延びてきた。戦後間もない時代は国民みな貧しくても互いに助け合う心があった。我が家も貧しかったが明治生まれの母親が言うに「人に迷惑を掛けないこと!と、お上の言うことは間違いない」と「勉強しておけ!、使っても減らへんし、泥棒が来ても持って行けへん!」であった。母の言った「お上の言うこと!」は、すべて、我田引水で自分大事がすべてであるのと、嘘ついている様に見え信用できない。天上の母はどう言うだろう?、55年以上前に仲間と山奥の分校を訪問した。バス停から1時間以上かかる位置にある分校を最不便な学校と指定された、その内の一つ、飯盛小学校千町分校を選び出かけた。仲間の持ち合わせの特技のマジック、歌、ゲーム、16mmフイルムの映写機と女子短大の人形劇を持ち込んだ。訪問は初めてのことで苦労はあったが、村人の歓迎を受け和み、20人余の学童と2日を楽しんだ。夜の映画会にはたくさんの村人が来てくれ教室は満杯になり成況であった。
こんな精神、心で80年生を続け、今も仲間を一番に「はりま風土記の里を歩く会」を世話し、これからも、兵庫5国を闊歩し続け、兵庫県一番の兵庫を知る集団になるよう、仲間と励みたい。Ⓢ atomu
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