2023年6月23日金曜日

「氷ノ山、後山、那岐山国定公園」の顛末

                    佐用の大撫山から後山山塊の冠雪
    中国山地の高峰が高度を競う「氷ノ山、後山、那岐山国定公園」を案内!!

 兵庫県、岡山県、鳥取県に跨る「氷ノ山、後山、那岐山国定公園」の山脈は本州の背骨である、分水嶺を成し、日本海と瀬戸内海へ雨水を分け流している。山麓の集落は山菜や自然一杯の山の恵みを収穫し、生活の糧を得る身近な山地だったのです。(今は、当時の繁栄は見えない、松茸を始めキノコ類、春秋の山菜は全滅か大減少)

 我らが山、「氷ノ山」は瀬戸内海寄りで生活している若者には早くから冠雪した姿は憧れであり、近寄りがたい存在であった。日本人による高峰マナスル登頂が戦後の登山ブームに火を付けた。これには敗戦で打ちひしがれた若者に勇気と希望を持たせ、戦後復興の担い手になって欲しいとの国の施策が有ったらしい。勉学では湯川秀樹の日本人初のノーべル賞、スポーツでは水泳のフジヤマのトビウオ古橋広之進が次々と世界新記録樹立などが先行していた。それに続くものに世界の高峰エベレスト(8886m)が選ばれた。しかし、すでに英国隊が挑戦を始めており、仕切り直した結果8000m峰で未踏のマナスルが選ばれ偵察隊が現地へ向かった。1次、2次隊を送るが悪天などで未踏に終わり中止の話しも出たが第四次隊で登頂できなければ中止する約束を取り付け、総隊長に牧有恒を据え後に引けない決死の覚悟で再挑戦し登頂を果たした。山頂で日本、ネパール、日本山岳会旗を掲げる姿に全国民が感動し、日本の未来に明るさが見えたと思った事でしょう。敗戦で焦土と化した国土を日本人の勤勉さで経済発展を遂げ始め、少し懐に余裕が出来たので登山ブームが勃発したのです。

 我らも、それに乗せられ、初めて登ったのが雪彦山であった。それから休日ごとに近在の山に登り、大きく裾野を広げた兵庫県の雄「氷ノ山」の遠望を眺め、登りたいの思いが募り一泊二日の山旅を果たした。当時は、戦前に学生たちが開拓し、残してくれたコースガイドが有った、それは素人の若者にはバイブルであった。その内に、地元で登山者やスキーヤ-を受け入れる民宿が開設され、語らう若者も地元も共に恩恵を受けたと思うが、長くは続かなかった。この時代はバス、汽車も潤沢に村町を繋いでいたが、庶民にマイカーが手軽に手に入るようになるとバス、汽車の本数が減りそれに合わせて村の人口が減り始めた。今になって慌てて対策なんて遅いし馬鹿げてないだろうか。犠牲は高齢者の村人と通学する学生たちばかりでないか。 

 では、現在はどうだろう、憧れだったハチ高原への観光客、登山者、スキーヤーは右肩上がりに増えなく下降気味である。外野席から見て物申すと、行政の施策の無さと指導の無さが大きな原因の一つだと思っている。国、県、町、個人が大風呂敷を広げ五年後には、10年後にはこんな「ハチ高原」にするのだ、成るのだと言い放ち、村人と共に希望と夢に向かう一貫した指導が成されなかったのが現在の姿ではないだろうか。

 江戸時代以降の日本産鉄の中心の備後、備中、備前、美作、播磨の雨水は瀬戸内海へ、但馬、因幡、伯耆、出雲は日本海へ恵みと併せ悪水をも流した。この地方は江戸時代末期には日本の鉄生産の8割を生産し、一大コンビナートであった。が、明治になりキューポラ式製鉄法が輸入され急激に衰退した。山内で働いていた彼らの末路はどうだったのだろう。木炭や砂鉄採取で荒れた山は牧場や木炭生産へと転換を図ったが一部を除き長くは続かなかった。今も100年以上経った今もその影は大きく、姫路市の人口と匹敵する50万余人しかいない小県もある。

 60年余に渡り「兵庫五国と近接八国を巡って」いるが豪雪で村ごと町へ降りたり、交通手段がなく住めないと消えた村を沢山見てきた。足が無くとも住み慣れた土地を終の棲家とする老夫婦で頑張っておられる姿にも出会った。その姿には気高いオーラ―をも感じ、再度の再会を約してしまったりもした。戦後の五国や中国山地でいかほどの集落が消え、自然に帰ったのだろう。頑張っておられる老夫婦に行政が手を差し伸べ、その土地での長きに渉る貢献に行政が感謝状を渡したら喜ぶと思う、どうだろう。Ⓢ  atomu 





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ホタル、アジサイ求めて東播磨を駆ける。

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