戦前に生を受けた我は数え歳6歳であった。当日、よく聞き取れないラジオ前で正座に座らされ、同席の大人と意味不明の放送を聴いたのは記憶にある。昭和天皇の抑揚のある言葉が流れてきて、大人たちが頭を下げ一言も喋らず聴き入っているので、子供ながらにただ事でないことは察していた。放送が終ってからのことは記憶にない。
食糧難は皆同じで、家庭に配給の,なんば粉、こうりゃん他、などなどを受けるのにチケットを持って親の代わりに並び受け取った、が家族を満足さすには程遠い量を受け取っていた。なんば粉を蒸しパンにすると黄色に、こうりゃん粉は赤くなったのは鮮明に覚えている。砂糖が無いので塩味だったのだろう。子供には美味しくない味であった。その後、化学調味料「サッカリン」「ズルチン」が発明され、またたく間に広まったが、体に有害だと云うことでいつの間にか消えてしまった。子供の腹を満たすには相当後であった。
昭和21年に尋常小学校1年入学で、まさに新生日本国の教育のスタートの生徒であった。当時の先生もこれまでと真逆を教えるので、混乱したと察しているが、現在の先生に無い馬力と熱意があったと思っている。
教科書は古い教科書で墨で消された箇所があったが、消し忘れた「てふてふ」があったのを見た。楽しみもあった「給食」で魚の缶詰の肉の入った味噌汁で、1年生には味わったことの無い美味であった。脱脂粉乳は初めての味で人気はいまいちで、コッペパンも味が無くあまり人気がなかった。腹を満たすのと、栄養補充に貢献して今日まで永らえられたのでしょうか。エピソードを一つ、祖父(明治6年生れ)が昼前に弁当を持って来てくれた。子供たちの給食の残りの魚肉入り味噌汁がバッ缶に残っているを先生が祖父によそってくださり美味しく食べていたのを走馬灯で思い出し、この光景が、何度かあったので祖父は楽しみにしていたのだろうか。
江戸時代の残る明治初期、大正、昭和を生きてどの様に思っていたのか聞き逃したのが今になり、残念でならない。Ⓢ atomu
今日15日は7号台風が兵庫県を縦断し、まだまだ風雨が強まりそうなので心配している。コロナで中止して以来四年ぶりの祭礼も中止せざるを得なくなり、残念至極に思うこと、お察し申し上げたい。我も ”さいれん坊”見学予定が果たせないのが残念である。今回を逃がすと5年の中止となり、小さな集落の小中学生が中心で舞う民俗芸能の所作などが伝わらない心配がある。5年途ざえれば中学生は高校を卒業し故郷を出るでしょうから。
これまでにも、村の行事を担う先輩たちにお話を伺うと人数が少なくなり重労働を伴う催しを、コロナを口実に中止し、これから先も不明だと言う。Ⓢ atomu
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