2024年2月25日日曜日

 「はりま風土記の里を歩く会」3月例会の「日時」変更のお知らせ!!

   地球温暖化で さくら の開花予想が難しい!

 今年のサクラの開花予想は何時になるのでしょうか?温暖化の影響で早いのではないかと言う。3月末には播磨のサクラ開花、満開が伝えられるかも知れないと考え、例会の日時決定に悩んでんでいる。第3水曜日開催の例会を一週間遅れの第4周にする準備を考えているので、会員の皆さんも3月27日(水)風土記の会に空けておいてください。行き先は未定。開花状態で考えたいと思います。

夢前川書写橋南
大津茂川石倉よりトンガリ山を望む  (2枚)

「20周年記念誌」に皆さんの好きな、隠れた、お勧めの、サクラの名所を事務局の和田さんまで写真と場所を送って下さい。掲載しますので! Ⓢ atomu

2024年2月22日木曜日

 「ボランティア文化に陰り」の新聞一面を見て!!⋯⋯⋯”そうは思は無!”

   ボランティア皆さんの活躍の場を早く作ろう!!!

 「阪神淡路大震災」が発生してから29年になる。未曽有夕の大災害に国民みながどうしようかと悩み苦しんだのである。我が親戚が神戸御影に住まいしていたので、連絡のTELしたが繋がらない。高速道路の橋脚が折れている写真を見て、親戚の家屋も危ないと判断し、救援物資に、カセットコンロ、鍋、ボンベ、ラーメン、2ℓ入り白湯の水、お茶、コーヒー、カップ、コップ、箸、手袋、マッチ、他は忘れた。すでに姫路のスーパーのラーメン、2ℓの お茶は品薄になりスーパーを駆けた。白湯なら加工が利くのと、寒いので火の大きなカセットコンロにし、マッチ、手袋は災害後の暖を取る必需品と考えて用意した。兄弟2人でキスリングと背負子で運搬する覚悟で出発す。R2、R250は通れないだろうから、福崎、加西、小野、三木を経由し、まだ六甲トンネルが一般車の通行可だったので、なんとか神戸の街へ入った。これからが大変、パトカー、救急車、消防車、一般車、自衛隊車が混在し動けなかった。弟が神戸で生活した経験から何とか王子動物園そばの自衛隊車が駐屯するネット沿いに車を止め、荷物を担ぎ歩き始めた。姿を変えた町並みであったが灘区に勤めた弟の経験が生き、何とか親戚の家を探し出せた。酒蔵会社の蔵も壊れ周囲も倒壊していたが、数年前新築していたので倒壊はせず無事だったが不在であった。小学校に避難されていると考え、これも弟の勘と神戸に居た経験が生き、何とか見つけ無事の親戚家族と出会えた。

 目的を果たした安堵感で未曽有の震災の姿を見ておこうと、橋脚が折れた高速道路、ビルの一階が壊れ狭くなった間に潜る自衛隊員、レールがずれているモノレール、中心部へ向かう車が多すぎて手の施しようがないポリス、救急車も先へ進めない、など等が、震災8日後の神戸の街の姿である。

  能登半島地震から一か月半を過ぎたのに「災害ボランティアセンターを経由して活躍する人数は延べ2739名」だと新聞一面に目がいく。何故こんなに少ないんだろうか?マスコミでしか情報が得られないが、個人で災害地へ入れなく、20000人を越えるボランティアを石川県が受付し、ストップを掛けていると言う。OKを貰った団体のみの2739名だそうだ。災害発生時の援助は初動がまずで、人命救助は72時間以内に救出すれば助かる確率が高い。今回もエキスパートによる救出があったと思うが、広範で道路決壊で到達できない集落が多くあったと聞くが、お爺ちゃんが居ったのにとか、子供の声がするのに、助けてやれなかった無念さは計り知れなく多いと聞く。道がダメなら海から入れば良いではないか。災害地に向かう医療班は多少のサバイバルはOKだろう?  と思うし、自衛隊の医師団が向かえば良い。過疎地の安心は外部の人や医療班の出会いであるから、一番に医療班と共に地元の古道を知る詳しい人が同行し安心を届けてほしかった。これからは、ガレキの片づけに移行するので、動かない石川県を外して早急に市町村が頑張って、力になりたいと来県するボランティアは質素な宿舎で頑張ってくれるでしょう。これを用意してガレキの撤去に若い力を発揮してほしい。知事がマスコミに出る姿は、災害時の一分一秒を争う気迫が無く、何々を作ります……だけである。辛抱強い現地の皆さん、老人の皆さん、大声を上げて助けを求めて下さい。Ⓢ atomu

雨の千枚田
にぎわう輪島の朝市

重要文化財の上時国家












 

2024年2月19日月曜日

  西国33ヶ所観音霊場を完歩して!! 第1回

   西国33所歩いた記録、色いろ!!!

 60歳定年を前に此れから先、幾年元気で歩かれるかを知りたいと考え、西国33所を歩こうと考え実行した。25年前以前だと西国歩きがブームでなく、33番の谷汲寺までに出会った巡礼者は大学生一人と、プロカメラマン、女子の小学生、道を教えてくれたご婦人2人、ぐらいでマイペースで完歩した。

 歩きでの約束は =  正月1日から歩き始め当年の12月31日までに完歩する(現役で休日と休暇利用して)。前回リタイア地点まで引き返し、1mもごまかさないのを基本とした。野宿を基本とした(雨と身の危険感じた時は宿利用した)。出来るだけ現地の人とお喋りする。地図(1/50000),コッフェル、シュラフ、マット、集印帳、着替え、雨具、筆記具、ガイドブック、食料、などであった。

 12月31日早朝の列車に乗り大阪、和歌山と繋ぎ、紀勢線も何度か繋ぎ新宮駅に着いたのは年が変わり新しい年の元旦を迎えていた。駅で始発のバスを待つ覚悟あったが、大阪からの女子大生二人も参拝に行くのだと聴き、大奮発をしてタクシーで那智山へ向かった。すでに参拝者が多く交通不便の寺院、神社で新年を迎える人の多さに驚きであった。巡礼者は見なかったが、多くの人が集印帳にサインを貰おうと並んでおられた。西国33所の集印帳には参拝した11日が記されたのが嬉しかった。山上にはたくさん旧跡が


有るのと、那智の滝を入れた御来光を拝そうと滝が見える高台へ向かった。これから向かう「大雲取越」への入口を確認しから、夜が明けてくると売店も商いをはじめたので、店主を冷やかしたが何も買わなかった。参拝したあと境内を散策し、青岸渡寺で朱印帳2冊と金剛杖を買い手に入れ、サインを貰いこれから展開する1年のドラマを記す事にしよう。夜が明けると、次々参拝者が登って来て、熊野那智大社、青岸渡寺の境内が参拝者で混み始めたので、青岸渡寺横の小さな「大雲取越」道標に送られスタートした。Ⓢ atomu






2024年2月16日金曜日

   忘れて居ませんか!、山崎断層地震 !!! 

 阪神淡路大震災から29年、日本各地で大地震が激増するので我が市町の長は、我が足元を忘れていませんか!!!。

 昭和15年(1940)に生を受け、今日まで生き長らえたのは、「神のみが知る成せる業なのだろう」か。世界大戦を無時生き延びた幼少年は、食糧難を両親の懸命な努力で十分な食料は無かったが、他人の物を盗み迷惑を掛けることもなく、貧しくとも大きく育ててくれた。どの様にやりくりしたのかは、知るすべも無いが、学校に納める諸費用は何時も忘れて(言いわけ)遅れたのは今も鮮明に思い出せる。現在学校では、欠席する生徒が多いようだが当時もあった。貧困による諸費用が納められない、親が仕事で不在なので小さな子供の面倒を見なければならない。金はあるが子供に勉強させず、家業を継がせる家庭もあった。

 昭和も30年、40年と進んでくると戦前から継続した商売方法の徒弟制度が会社員と言う新しい制度になり、若者は会社へ勤め青春を謳歌し、社会問題化し始めた。そこで、政府はグループ活動を推奨し、地域では青年団、4ℍクラブ、全国的にユースホステルを開設し健全な若者を旅へ誘い、ブームを呼んだ。
 戦後間もなくは、全国的に台風の洗礼を沢山受けたと記憶している。家が倒れるのではないかと思うほど揺れた。ジエーン台風、伊勢湾台風、他などだと思うが、戦後間もなくに大地震が起きたのは少年は知らないが、二階で寝起きしてたので地震の経験は数度はある。近隣で大地震の経験は無く、昭和を終え平成になると、”山崎断層地震が近い”と騒ぎ出し、各所で試掘が始まった。山崎断層の支脈、”暮坂断層‶が揺れ震度4を記録しての、結果は知るすべを持たないのは、その後、日本各地で大地震が多発するので、山崎断層地震は遠くへ追いやられた感がある。
 阪神淡路大震災以降に発生した大地震は全国に跨り、羅列は最終稿に送るが、北海道から九州(熊本)までで、地震国日本を象徴するような回数である。
 今回の能登半島地震の兆候は2年以上前からあったのに、行政が何かをやったとは聞いていないし、発生後の対策のゴタゴタにも腹立たしい。石川県は四周を海に囲まれているので、自衛隊がオーバークラウドで上陸し、救護の品々を寒村に届け、村民を救出するものだと考えていたのに、テレビ画面からは伝えない。何故だ!!、また、石川県知事が記者会見の時、テレビで机の前で椅子に座り足を組む姿に接した、何と心の貧しい知事だ、と感じ思ったのは我だけだろうか。
 最近の山崎断層の様子を知りたい、30年前には対応を考え、対策をしたはずなのに最近の山崎断層の様子がマスコミからは聞こえてこない。この時期に「山崎」は受けないだろうが、今回の能登半島地震を契機に、山崎断層の危険に繋がる地域(市町村)で連携した行動を起こしてほしい。10年後に対策が空打ちなら良かったと歓び、次の10年へ備えれば、備えが3重になるはずです。”備えあれば、憂いなし” 小さな備蓄を寒村々に毎年やれば良い。ならば財政の負担は軽い。今回の災害を見て、車で行けるものだと考えたが、消防車でも救えない、救助用備蓄(食料、カセットコンロ、通信用の電源、用具)が用意されてなく、田舎ほど自治会組織の絆は強いのが生かされたのだろうか。テレビ画面には連絡がなく、食料も底ついた、との悲しい画面ばかりが多いなか、公民館に村全員が薪で暖を取り、知恵を出し合い倒家屋に挟まった人を柱をテコに救出し、頑張っている。とか、漁船を出して、漁港のある村々に品を届け周った。昔の峠を越え寒村に入った。都会の人には出せない知恵を発揮したのを聞きたい。
「暖かくなれば、阪神淡路以降に発生した各地の大地震や災害の復興状態や、村仲間と離れ離れになった寂しさ等を生で聴き歩き、テレビやマスコミ出ない姿を仲間に伝えたいと思っている」
 いつ起きるか分からない地震に、遭遇した行政の長は「想定外であった!」と言い訳する姿は、もう飽きあきである。起きても最小の災害で終えたら、さすがうちの市長は大した者だと大喝采するでしょう。長は「市民の命と財産を護るのが我々の仕事だと」声え高に吠えるなら、毎年、少額の予算を集落に配り集落が中心になり補助道具を用意することが「生命と財産を護る」ことが出来る最短の

道だと信じている。また、過疎化が叫ばれる村ほど戦前に組織した「隣組組織」を立ち上げよう。老人も会合に顔を出し、昔の知恵を発揮し、お世話になるのでなく参画する歓びは若者、少年にも受けるでしょう。また、通学する子供に「おはよ~……」と声かけし、存在をアピールしておこう。長年慣れ親しんだ仲間と共に……と仰る老人の命を長らえる方法だと思うので、隣組を大事にして欲しい。
 最後に四周を海に囲まれた能登半島に、客船(フェリー)を廻す話は聞かない、何故だ!、阪神淡路大震災に経験し、有効を体験しているはずであるのに、石川県の長が言わないなら政府で先頭を切り、寒い体育館から開放してやってほしいⓈ atomu 












 

2024年2月1日木曜日

 明日二月三日は(令和六年)『節分』で、恵方は「東南東」だそうです。

京丹後、鬼博物館の大鬼
男女のなり合いを鬼に託し!!

 令和六年の恵方は「東南東」潤(うるう)、甲辰(きのえたつ)歳だと「暦」はいう。戦後間もない貧しい家庭の”鬼追(節分)い”は沖が近かったので海苔は安く手に入ったので、干瓢(かんぴょう)入りか漬物大根を刻んだ巻き寿司を「かぶった」のが季節変わりの歳時記の楽しみであった。大人たちは沖へ海苔拾いに出かけ、拾ってきた海苔は庭先で加工して佃煮に姿を変え夕餉のおかずになた。            
 暦では明日3日は雑節の「節分会」です。子供が成人し、孫も社会人になると爺(ジジ)より友達とスイーツを頂く方に足が向くのは致し方ないことだが、平安時代から続いて戦後間もない時代は、家族皆がそろう数少ない夕餉あとの楽しい行事であったのが何時の間にか、戦後復興が進み父親は朝早くから夜遅くまで働き戦士として、母親も会社勤めをやり、夕餉のちゃぶ台を片付けたあと遅くまで夜なべして子供の服の繕いをし、朝眼が覚めると枕元に繕いを終えた靴下、服がたためられ子供の寝覚めを待っていた。当時の親たちの働きと苦労に”ありがとう”と言っただろうか、忘れたが言っていないかも知れない。当時、子供の働き口は新聞配達か、牛乳配達ぐらいであったのを共に経験した。ので今も目覚まし時計が無い生活を出来ている。
「二月」は旧暦では如月(きさらぎ)呼び、『日本書記』に用例が見られます。如月の語義は、草木の芽が出し始めることで、着物を更に重ね着ることだとも言われる(衣更月)。他に,華朝(かちょう)、春分(きさらぎ)、絹更月(きさらぎ)、雪消月(ゆききえつき)、など10指を越える呼び名がある。「4日」の立春を聴くと春近いと感じるのは我だけだろうか、庭木に野草に眼をやり、春を見つけたいとなったりし、見つけると嬉しいのである。
「節分会」は今年二月三日を節分としている。もともとは、立春、立夏、立秋、立冬の前日を指し、一年に4回あったが現在は立冬の前日の一日だけとなった。旧暦では正月を迎える月なので、節変わり、年越し、年取りなどと呼ばれ、災厄、邪気をはらう行事として行われ、豆を投げ、「鬼は外、福は内」と呼ぶのは中国から伝えられ宮中に伝わり、庶民には江戸時代初めでしょう。今も、玄関にイワシ、柊を据えるのは悪臭で家内に鬼が入らない考えからで、戸主が投げたマメを年の数だけ拾い食べたのは半世紀をゆうに超え遠くなった。
 季節を感じる年間行事や人生の節目にお参りする儀礼などなど、風土記を歩く会員皆さんは還暦はすでに終え、古稀、喜寿祝いは、どの神社にしようかと考えておられる方もあるでしょう。最後に、年間を通して各所で開催される歳時記に足を運び、現地の人と喋り、想いを肌で感じるなら日々の生活のスタイルも変化し、張りが出るでしょう。明日は何処へ出かけますか! Ⓢ  atomu
 



 











 


ホタル、アジサイ求めて東播磨を駆ける。

北条鉄道北条口駅 北条鉄道、田原駅 北条鉄道,網引駅 JR加古川線,小野町駅  新装なった加古川畔の見土呂植物園へ出かけた。温室の展示物がエコーになって、手の掛からない植物、身近なのが増え持ち帰っても育てやすいのになり、気楽に家族で無料で見学できる様になって、喫茶とドームが繋がり...