彼と出会ってから30年越えに成ろうとしている。元気な時は宍粟市へ日参し、宍粟市の地元古老に地元のワシらより要知っとるナ……と言われたものだ。ひと月のうち10日以上通っていたこともあった。宍粟市は大きい(広い)、千種町の奥、江浪峠、波賀町の奥戸倉峠の先は他県で、我家から1.5時間以上掛りガソリンが高騰した時の心の痛みは如何ほどだったのだろうか。宍粟市に入れ込んだのは、第一次登山ブームが起きた60数年前1000m峰の峰山高原の暁晴山、段が峰に登ったのがきっかけと、三室高原でユースラリーをやってその後、県主体の宿泊棟が完成したなどなどが若者に火を付けたのだろう。マイカーは無いがバス電車、汽車を利用してローカルの旅を楽しんでいた。当時、すでにプロパンガスが各家庭に設置が始まり、台所革命が起きた時期でもあった。まだ、戦後の傷跡は残り、山は禿げ、幼木を植林した山肌が続き見晴らしがあった。登山ルートも古くからの峠道に植林用に付けられた細道が縦横に走り、面白くもあり注意をしながら進んだものである。当時植えられた林は50年以上が過ぎ伐採を待っている。その後植えられたスギ、ヒノキは瘦せ細り、間伐が進んだ京都北山杉の様に見えるが明るい樹間は人間と一体を感じるのです。播磨の人工林は間伐間引きがなされてない林が多い。豪雨による山荒れの多くは人工林で災害をもたらし、復旧に莫大な経費を要している。ならば、間伐伐採が進んでいるかは、素人眼では数%なのでしょうか。
60数年宍粟市に日参し、村人とも縁先で、道端で、宴席でお喋りをし、心情は聞き尋ねたのだが何も出来なかった。村でとか、行政と村がタイアップで大きな波を起こせなかったこととが心に残る。早くから若者を地元に残そうとする考えがなかった。北部の3スーキー場が閉鎖したのは雪不足もあるが、高齢化が大きな理由である。開場した当時の賑わいを忘れられない人の運営ではダメで、若い知恵と行動力が決めてである。たとえば、海の休憩所が30日で1年間お稼ぎをやる良い仕事だと持てはやされた。が学校や街にプールだ出来て一年中泳げるとかで若者、学校行事が無くなる。また、県北の神鍋、鉢伏スキー場もしかりであった。一年通した集客を狙い、スポーツ、ブラスバンドの合宿を受け始めたが、行政の指導の無さと民宿の個人プレーがあって、関西一円には広まらなかった。 小さなが波であったが、彼が行政マンであった時「山の国宍粟」を謳うなら、森林従事者の仕事はもちろんだが、近在や神戸大阪から登山者に”来てもらおう”下山後は「道の駅」で買い物、「日帰り温泉」に浸かってもらう。登山口で「地元のお喋り」は、老人の刺激と街の人の農産品の希望が聞け、農作業に励むきっかけになる。と話し合いハイキングコース整備と一市町村が書店に並ぶ『宍粟(しそう)50名山』の出版は全国初めてで多くの賛同を得た。今も、ボランティアがコース整備を続け多くのハイカーが宍粟市に足を運んでくれる。他に、源流の森100選、名水百選に選ばれた二流がある恵まれた山村市である。Ⓢ atomu